かぶの葉
ミニマルな料理ここに極まれり。
○かぶの葉を切り落とす
○葉を洗う(水にしばらくさらす)
○皿に盛る
以上。
味付けなし。
上述2つの手順のうち大事なのはむしろ「皿に盛る」の方ではないかという気がしてきた。
皿に盛れば料理
なにか物事の本質に迫った格言を言い放った気分にもなるが、これはどんな未完成なデモ音源でもリリースさえしてしまえば完パケされた音楽として世の中に認知される、みたいなことなのだろうか?世に溢れる数多の研ぎ澄まされた音源たちと同じ1曲としてSpotifyやApple Musicの画面上では同一サイズのフォントで並べられるわけだし。そんな気もするし、なんか違うような気もする。無理に音楽のメタファーを持ち出そうとするのはきっとワタクシのバッドハビットであり、悪手なのだろう。だが完璧に整えられた豪華絢爛な音源よりもスカスカでヘロヘロな音源に食指が動くことは、少なくともワタクシにとってはなにも珍しい話ではない。
ツッコミどころは他にもある。今は夏真っ盛りである。かぶの旬から外れている。でも気にしない。かつて真冬に「サマーソルジャー」をリリースした、サニーデイサービスのスピリットが俺の中に今も息づいているからだ。出したい時に出すのだ。
この料理(?)の起源はお察しの通り調理中のつまみ食い。かぶの葉を切り落としたはいいものの、さてこれをどう料理しようとヒョイパクポリポリしてみたら「うっめえ!」→もうこのまま皿に盛っちゃえ、です。そういやラディッシュも葉ごと皿に盛ってそのままポリポリ食べてるもんなーと思いだしたりして、いつしかうちの食卓にしばしば登壇することになりました。もちろん食べやすい大きさに切って白い部分と一緒にサラダにぶち込んだり、炊いたりすることもありますけど。
こいつのポイントは、自分が言うのもなんだが、もはや味うんぬんよりも「これでいいじゃん」という視点にあると思われる。ワタクシのように毎日家族のご飯をこしらえる人間の中にも、毎日料理することをどうにも「めんどくさい役割」としか捉えられない、つまり料理が苦手な、あるいは興味を持てないタイプはそれなりの割合で存在している。俺だって今日はご飯つくるのだりーって時はもちろんある。そういったタイプの人がかぶの葉っぱを切って、なんなら手でもぎって「これでいいじゃん」ってやれる世界線の方がそのファミリーも含めて豊かなものなのではないかと思ったりするのです。まあ味もなにも足さないかぶの葉をうまいうまいと食べてくれる草食動物のようなパートナーや子供がこの現代ニッポンにどれくらいいるのかという懸念は根強く、このたくらみも企画倒れにな可能性が濃厚なのだが。
だけどあくまでうちの二人のわんぱくキッズ達の場合は、このかぶの葉も、メインの肉に乗っけて食べる用に添えた生ピーマンもそれだけをボリボリ食べまくるわけで、親は選べないという残酷な事実に心を痛めそうになるも、うんうん、こやつらしっかり素材を味わっておるなんつって「食育」というパンチワードに都合良く回収することで心の平穏を保っていたりもする。こんなエピソードは置いておいたとしても、あなたお弁当にプチトマト入れますよね?特に味はつけないですよね?いかにトマトが野菜にあるまじき旨味をその身に抱えている野菜界の大スターとはいえ、それって今回の料理と味なし野菜という意味では同一カテゴリーですよね?てことはそれって五十歩百歩、後は習慣、慣れの問題では?とも思うのです。音楽の話でもこういうことはよく考えます。ワイは音楽においても余白が好きなんじゃあ。だからこういうのか悪手だっての!
いや、もちろんワタクシ的にもかぶの葉のみで満ち足りるというか、むしろ「これがいい」と心底思うんですよ。ですがさすがにこれだとおいしくない、と感じたパートナーや子供達は手前で味噌やマヨネーズでも冷蔵庫から出してきてアドオンすればいいじゃないですか。逆に味噌やマヨネーズという身近な調味料の偉大さに気づくことにもなるかもしれない(ならないかもしれない)。
こんだけ熱弁をふるっておきながら、今かぶの葉を食べたところ味が薄くあんまりおいしくなかった………..
やっぱりこいつはもっと寒くなってからお試しください。